伏見桃山周辺は知り合いも多く、仕事の関係上、よく足を運びます。
かつて伏見には港がありました。
「港=海」のイメージしかなかったので、当初は「海のないところで港って?」と思っていましたが、豊臣秀吉が伏見城を築造する際につくられた河川港で、大阪との水運の拠点だったそうです。
疎水の辺りをブラブラと散策。
角倉了以の碑。
江戸時代、彼によって高瀬川が開かれ、淀川〜伏見〜高瀬川…と大阪−京都間の物資の輸送手段が確立されました。
実は、今でもこの疎水を辿ると木屋町通りの高瀬川に行き着くと長い間思っていましたが、現在は分断されています。
十石舟が通りました。お約束のお手振りを…。私も幼い息子と乗った事があります。舟から酒蔵が並ぶ風景を見るのも中々の風情です。
その時の風景。↓数年前の写真で失礼・・・。夏だったと記憶しています。でも、今でも変わらぬ風景です。
さて、伏見桃山の高台の方へ向かって歩いて行くと明治天皇陵が見えてきます。その近くに乃木神社があります。
明治天皇崩御の後、自刃して殉死を遂げた乃木夫妻が祀られています。
乃木大将が幼少期を過ごした長府(山口県)のお家です。
長府藩士だった乃木将軍のお父様が閉門蟄居(不本意な理由のようです)の身となった時に間借りした足軽の家だとか。ここで一家7人が生活されていたとは・・・。
乃木大将の生涯について展示されている記念館は、日露戦争の際に「第三軍司令部」として旅順攻囲戦の指揮をとられた乃木大将が起居された建物です。海を渡って移築されたのですね。
奥の間の寝室は意外に狭かったです。
乃木大将への評価は色々ある(名将?愚将?)ようです。ですが、多くの戦死者を出した事を悔やみ続けた(ご自身の息子さん2人も戦死されています)というエピソードに軍神とも呼ばれた乃木大将の人間らしさを感じました。
もう一つ、ほぉ~と思ったのが「乃木家の家庭訓」。
乃木将軍が幼少の頃、毎朝お父様が乃木少年に一条の教示をすることが日課だったそうで、その時の訓示を「いろは数え歌」として遺されたそうです。
「い:幼なき子供に判るいろは歌 読んで覚えて正義行へ」から始まる道徳的ないろは数え歌です。
学習院の院長もされていたそうで、軍人乃木大将の別のお顔を見た気がしました。
いろは数え歌からもう一つ。
「碌々に知らぬ事をば談すなよ 深く問はれて恥をかくなり」
・・・はい、肝に銘じます。
そして、仕事で「知らぬ事」は恥をかくだけでは済まない事もあります。日々新しい情報に敏感でいたいものです。
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