友人が京都の島原にある角屋見学に誘ってくれました。新撰組ファンとしては、知らない訳はありません。
ですが、はたと気づきました。
京都のどの辺りだっけ?
・・・そう、名前を知っているだけで知らないことばかりだったのです。
知らなかったこと①:「島原」はどこにある?💦
なんと島原は、京都水族館や京都鉄道博物館の近くでした。
息子が小さい頃はよく行った場所の傍に島原があったとは…。その頃とは違い、駅(JR京都駅から一駅)や遊具のある広場等もできて、綺麗に整備されていました。
目についたレストランで、先ずは腹ごしらえ。
「京野菜レストラン」というだけあって、野菜たっぷり。チキングリルのラクレットチーズ のソースも美味。
無計画に入ったけれど、これは正解。
知らなかったこと②:「島原」は地名ではなかった💦
レストランから歩くこと数分で到着です。島原の大門です。
「島原」は江戸期からある公認の花街です。ですが前身は六条三筋町(東本願寺の近く)にあり、1641年に今の場所に移されました。その移転騒動が少し前に起きた島原の乱を思わせたところから「島原」と呼ばれるようになったそうです。
正式地名は「西新屋敷」で住所に「島原」とは入っていません。後からお話する角屋のガイドさんが「京都の人でも知らないかも」と仰っていました。もっとも、京都の住所自体、町名や番地の間に「○○通り上る」とか「△△通り□□下る」とか入っていて独特ですが。
こちらは、置屋の輪違屋。太夫や芸妓を抱え、揚屋に派遣するところです。
知らなかったこと③:島原は遊郭ではない💦
さて、角屋。
揚屋と呼ばれる料亭です。料理を提供し、置屋から太夫や芸妓を派遣してもらって、お客をもてなします。
料亭なので、お客は泊まりません。夜の宴会が終われば、皆帰るのです。
馴染みの芸妓と一夜を…なんてことにはならないのです。(当時は通りの両端に十数件の店が並んでいたので、そうしたお店もあったかもしれませんが。)
大勢のお客をもてなす大宴会場に、それを可能にするだけの広い調理場、中庭の茶室を備えた建物を「揚屋建築」と呼びます。東京の吉原では早い時期に(江戸時代)潰れてしまい、大阪の新町は空襲で焼けてしまった為、現存する揚屋建築は、この角屋だけです。
唯一残った大事な建物です。入り口の樹木がそれを物語っています。
それなりの高さがあった樹木、暴風で倒れた場合に建物を損壊させる恐れがあることから短く切ったところ、枯れてしまったそうです。
これは柱の刀傷。新撰組隊士がつけたといわれています。
二階の広間にもありましたが、ふざけてできたもので戦闘によるものではありません。
どなたの仕業が知りませんが、酔った(多分…)イタズラを後世まで語り継がれるとは…。
大宴会の料理を可能にした調理場は、畳百畳程の広さ。機能的な工夫が随所になされています。
こちらは松の間。
新撰組結成時の局長(3人いました)の一人だった芹沢鴨は、この間での酒宴で泥酔状態にさせられ、帰宅後の寝込みを襲われ、命を落としたといわれています。
ただし、ここだけは火事で大正時代に再建されたものだそうです。
こちらは網代の間。
なんと柱が一本もないお部屋です。床の間の木も飾りで、柱ではないとか。
天井に通されている木材で支えられているそうですが、床が抜けるのを防ぐ意味で、真上の部屋は立入禁止になっていました。
他にも、構造上あるべき柱を備えていない箇所が角屋にはいくつかあります。部屋から眺める景観を損なわない為の造りだそうです。景色ももてなしの一つだったのですね。
他の部屋もそれぞれ趣向をこらした造りとなっていますが、二階は「文化財保護の為、撮影禁止」でした。
特に驚いたのは黒壁のお部屋。壁や建具に青貝(螺鈿ですね)があしらわれています。中々シックなお部屋です。
ですが、その壁は元々浅黄色でした。真っ黒になったのは蝋燭の煤の為だそうです。確かに当時の照明は蝋燭や油でしたね。その煤でここまでになるとは・・・です。
文章だけでは上手く伝えられず・・・。一見の価値ありです。
このようなお部屋で、明るいうちは茶会や句会を楽しみ、夕刻になると歌舞音曲を楽しみながら食事をいただく…こともあったそうです。当時の文化サロンですね。清河八郎(新撰組の前身ともいえる浪士組を結成した人)や頼山陽(尊王攘夷運動に影響を与えた幕末の思想家)は母親を連れて来て、親孝行をしたとか。
「お母さんを連れてこれる場所が不健全な場所ではないですよね?」とガイドさん。
「角屋は文化サロンであったこと、島原は吉原とは違う魅力があること(勿論、吉原には吉原で生きてきた人達の矜持があったとも私は思います)を知ってもらいたい!」という、ガイドさんの思いを感じました。
島原と吉原の違い…。それは「花街」と「遊郭」だそうです。
「京都の島原」とくれば、「東京の吉原」「大阪の新町」を連想される方も多いはずです。三大遊郭ともいわれています。
ですが、「遊郭」と「花街」は厳密には違うそうです。
遊宴に欠かせない歌舞音曲を練習し、広く一般の人々にも提供する(「都おどり」が有名ですね、)歌舞練場を有している営業形態を「花街」、そうでないものを「遊郭」と呼びます。
歌舞練場は、先斗町や祇園、上七軒が有名ですが、ここ島原にもあったそうです。
だから島原は「花街」です。ですが、祇園等に比べて交通の便が悪く、公認であるにも関わらず寂びれ気味だった島原、最終的には歌舞練場も廃業してしまいました。
当時の名残をあらわしているのは、ご紹介した島原大門・輪違屋・角屋のみです…。
ガイドさんのお話を聞いて思い出したのが、その日の朝の我が家の会話です。
息子:「出かけんの?どこに行くん?」
私:「島原」
息子:「それ何?」
私:「新撰組も使っていた遊郭(知らんのかい…)」
・・・ごめんなさい、私も知らなかった。勿論、帰ってから訂正しておきました。当の息子はキョトンとしていましたが。
知らないことを知るのは、楽しいですね。
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